つながりは永遠
毎週一回、実施されている地域サロンに参加しているおじいちゃんは、90歳を超えておられます。
身体は元気ですが、おばあちゃんが入院され、一人で暮らしているうちに、落とし物や物忘れが多くなってきました。
おじいちゃんは、サロンの日には、市役所から届いた手紙や文書を持ってきて、サロンボランティアに毎回相談していました。
おじいちゃんにとって地域サロンは、困りごとを気軽に相談できる「なんでも相談室」でありました。
ある冬の日の出来事でした。
「家の鍵を落としてしまった。家の近くにあるはずなんだけれど、見あたらないんじゃ」と、サロンボランティアの家に申し訳なさそうにおじいちゃんは来られました。
家に入ることもできず、寒さに震えながら、立ちすくむおじいちゃんに、
「大丈夫だから、家に入って待ってて。」
「暖かいものを入れるからそれを飲んで待っていて。」
と促し、他のサロンボランティアに連絡しました。
とサロンボランティアが笑いながら言うと、
「何も あらへん。みんなの顔が見たかったんや」
おじいちゃんは、今でも、なじみのみんなと何気ない話をし、楽しいひと時を毎週、過ごされています。
ただ一つ違うのは、時々若いヘルパーさんが付いてきていることぐらいです。
暮らしのつながりは、そこに住んでいるとか、住んでいないではなく、心のつながりを意味するものだと気づかされました。
つながりは、心であり、紡がれた「心は永遠」であることを感じました。
地域サロンをきっかけにした、草津市のみなさんの「つながり」の素敵な物語が、ここにあります。
おじいちゃん、これからも来てください。
ずっと、笑っていてください。
いつも待っています。
すきやき
余命1年と告げられ、在宅介護が2年経とうとしていた土曜日の夕方、訪問医が「今日か明日がヤマですね。何かあったら連絡してきたください。」
そこには、夫(79歳)、息子夫婦、娘夫婦、孫3人が集まっていました。
振り返ると2年前
「みんなで少しずつお手伝いしてくれるのなら、できる限り家で看取りたい」と言った夫に対し、
「わかった。そうしよう。手伝うで。」と言ったのは、涙を浮かべていた中学生と小学生の孫でした。
あれから、訪問医、訪問看護、介護サービス、家族で、在宅看取りがスタートし、今日までやってきました。
今回、訪問医が伝えた時に、訪問看護師の私は、一生懸命に介護してきた家族はきっと泣き崩れて、
「おばあさん!」 と叫ぶ家族を思い浮かべましたが、実際は
「はい、わかりました。」 といつもと変わらない姿でした。
後で、息子さんに聞いたのですが、
息子の僕が『みんなで、家族一丸となってがんばろう。』と言ったら、孫が『頑張らず、普通にお手伝いして、普通におくつてあげようよっ おばあちゃんは、一生懸命より、普通が一番やろ』と言ったそうです。その孫は、そう言いながら、一番多く電話してきたそうです。
そして、自分たちができること、専門職ができることを丁寧に聞き取り、普通に暮らしながら、おばあちゃんを見送ろうと話したそうです。
そしていよいよ、その日がやってきたのでした。
「今日は、何食べる? 久しぶりにみんな集まったし、おばあちゃんの好きなすき焼きにしよう。」と夫であるおじいさんが笑顔で言いました。
家族全員で、たらふく食べて、ビールも飲み、お風呂にも入って、いつもどおり「ばあちゃん、寝るで」と一人ひとり声をかけ、寝に行きました。
最後に夫が、お風呂に入り「おい、すき焼きのいい匂いやったなぁ わしも寝るわ」と言った時、息が小さくなってきていることに気づきました。
「みんな来てくれるか‥・」
みんな慌てることなく普通に集まり、訪問看護にも電話がきました。
家族は「おばあちゃん、いい顔しているねっ」と覗き込み、孫は顔をやさしく触っています。
その10分後、穏やかな表情で亡くなられました。
3か月経ったある日、スーパーで夫であるおじいさんに出逢いました。
「やあ、妻の時は、ありがとう」と声をかけられました。
「今日は、みんな集まるねん。孫もくるんや。」 とお買い物されていました。
かごの中には、ネギ、高そうな牛肉、焼き豆腐が入っていました。
おじいさんは、穏やかな姿で、
「ばあちゃんが、家族を紡いでくれているんや。今日は、すきやきやねん」と私に伝えてくれました。
看取りの「看」という字は、手と目という字で出来ており、『専門職等と「手をつなぎ」、家族でそっと目配りして無理せず看取る』という意味なのかなぁと感じました。暖かい心の看取りを経験させていただきありがとうございます。とおじいさんの後ろ姿に一礼をしました。
私は訪問看護師です
今日は、私も夫と「すき焼き」を食べます。いいお肉にします。
今日は、市内で、すき焼きが何件食べられているのでしょうか。
当事者支援とは
息子と母、二人で暮らしてきましたが、息子の結婚を契機に別居することとなりました。スープの冷める距離感(スープは運べるが、冷めてしまう距離)に住んでいます。
ある時、急に母の認知症が進み、息子である旦那は、単身赴任とバタバタする日々がつづきました。
もともと母は、わがままで近所とも折り合いが悪く、長年隣の家とも口を利かない関係性、他人を受け入れない人でした。
そんなこともあり、嫁である私は、子どもも小さいが、毎日、朝晩の食事介助、掃除・洗濯・お風呂を入れる等と、家のこと、義理の母親の介護を頑張っていました。
母の口癖は、
「他人やのに悪いけど、もっと早くきてくれるか、私の家ではこうしてくれるか。」
と何かにつけ嫌味をいう日々でした。
「もういやだ、無理だ。」
と、笑顔を失った自分に苛立ちを持ち、やさしくなれない自分を感じてきた時のことでした。
いつものように母の介護を終え、家の玄関先で大きなため息をついた時、隣の老夫婦が、
「あんた、頑張ってるなあ。一人じゃないで、なんかあったら言いやあんたの愚痴ぐらいやったら聞けるで。」
とおじいさんとおばあさんが笑顔で声をかけてくださいました。
私は、思わず玄関で泣き崩れてしまいました。
車で帰る途中、「また、笑顔でお母さんに向き合える。」「やさしぐなれる。」
そんな自分を好きでいられると思い、涙がとまりませんでした。
支援とは、当事者への支援もあれば、その家族への支援もあります。両方とも結局、当事者への支援になります。
当事者本位とかよく言いますが、暮らしは一人で営んでいるのではなく、いろいろな人たちがあって暮らしがあるのだと、改めて感じる出来事でした。
あなたは、一人ではないのです。
辛い時、あなたのそばに きっと誰かがいるのです。
虹色の二ツト帽
17年前のある夏の日、電話が鳴りました。
「通学路に変な服装をした高齢者がゴミ拾いをしている。子どもたちが怖がっている。」とのこと。
その電話を受けて、民生委員・児童委員さんと一緒に訪問をしました。
その方は、アパートに15年住んでおられ、真夏にもかかわらず、虹色のニット帽にピンクセーターそして半ズボン、靴は女性用のサンダルといった服装で、玄関前を掃除されていました。
「○○さん、ちょっとゆっくり話したいのですが、お時間ありますか。」
「はい、久しぶりです。嫁が亡くなった時はお世話になりました」としっかりした口調でした。
会話をしている中で、着ている服は、亡くなった奥さんのものであり、大切に着ていること、掃除は、玄関先と近くの道をしているとのことでした。
「なぜ、掃除しているの?」と聞いてみると、「妻が生きている時にね、子ども達が気持ちよく通学できるようにゴミ拾っていたんや、だから僕もしてるねん」とちょっときみしそうな目をして話してくれました。
奥さんは、半年前に自宅で倒れている所を、ご近所さんに見つけてもらい救急搬送された後、亡くなりました。
その時に夫は、警備のアルバイトに出ていて、民生委員さんからの電話で病院へ走りました。
死に目に会えたのは、ご近所と民生委員さんのおかげであると大泣きされていたことを思いだしました。
民生委員さんからは、「服装どうにかなりませんか。男性用の服に着替えて外に出ましょう。」と約束を取り付けていただきました。
しかし、虹色のニット帽は、曲げられませんでした。
民生委員さんは、その後その方と数カ月一緒にゴミ拾いをし、地域の方にも理解が広がってきたとのことです。
「ちょっと変わっている人やけど、民生委員さんも一緒やし、l人暮らしのおじいさんやから気をつけるわっ」と地域の人たちが言ってくださったそうです。
そんなある日、地域の人から
「おじいさんが居なくなった。数日見ていない。」と連絡があり、民生委員さんは、近所の方に聞きまわりました。
すると、琵琶湖湖畔に虹色のニット帽の人が座っていたと連絡があり、迎えに行くと
「○○さんありがとう、道がわからへんねん、フラフラやねん、帰れへんねん」
民生委員は、すくに病院へ連れて行きました。
脱水症状や名前が言えない状況であり、結果、認知症でした。
その後、施設に入所されました。
そして、民生委員さんは、入所された施設に会いに行ったとき、見つけられた経緯を本人へ説明しました。
その時には、「あんたの名前は、わからへんが、助けてくれた人やなっ、地域の人にありがとうと言っておいてくれへんか。帽子は、誕生日に嫁がくれた物やねん。このおかげやなっ」と言って虹色のニット帽をかぶって笑っておられたそうです。
個別援助活動を中心に地域の方々と関係性を構築している民生委員様、いつもありがとう。
気遣いをしてくだきっている地域の方、ありがとう。
虹色の帽子をプレゼントした奥様に、ありがとう。
今も、私は、施設で笑っています。
子どもの世界
ある女の子の5歳の時の話です。
今まで大きな問題もなく、楽な子育てだと思うくらい良い娘でした。
ある日、急に右利きだった娘が、左手でごはんを食べだしました。もちろんごはんは、こぼしまくります。お母さんは、何度も何度も怒って止めさせようとしましたが、娘は止めま
せん。ついに、お父さんから言ってもらうことになりました。
お父さんは、初めて娘を「叱る」ので、メモを書いてその場に臨みました。
「どうして、右手で食べないの?」・・・無視
「右手で食べなさい」・・・無視
「お母さんの作ったごはんが机に散らかっているでしょう。右手で食べなさい。」・・・無視
「もう、返事もしないなら、食べるのをやめなさい。」
娘は、泣きながら布団へ行きました。
その夜、両親は語り合いました。
「どうしたものか。最近、なぜか右手を使わない。かばんも左手、文字も左手・・・。もしかして左利きなのかな?」
3日が経とうとした夜、玄関のチャイムが鳴りました。
娘の同級生の男の子の、お母さんでした。
息子が元気がないので、問いただしたら、娘さんの腕を引っ張って泣かしたんだ、と伝えたらしいのです。
その後、右手を使わなくなった娘の姿を見て、息子が「えらいことをした」と、落ち込んでしまっていたのだと、同級生のお母さんは涙ながらに伝えてくださいました。
同級生のお母さんは、玄関口に来た娘を、「大丈夫?」と声をかけ、抱きしめました。
その日のうちに病院へ行きました。
娘は脱臼していました。
その夜私たち両親は、「子どもの世界があるのだな」と、夫婦で話し合い、娘に手紙を書きました。
『○○ちゃんへ。お父さんも、お母さんも、知らなくてごめんなさいね。ただ、言いにくいことがあったとしても、伝えてください。○○ちゃんも悩んだでしょう。
つらかったでしょう。相手の○○くんも○○ちゃんと同じだけ悩んでいたとのことです。これから大きくなっていくときに、言えない悩みがあったとしたら、手紙でもいいので伝えてください。あなたが生まれた時のことを思い出すと、歩けなかったあなたが走り回り、男の子たちと暴れ、内気だったあなたが私たちに反抗までした。あなたのこれまでを知っている親なのですから。
五年間でこれほど成長し、私たちも一緒に成長していますので。
また、あした○○くんに元気な顔を見せてあげてください。ケガには十分気をつけて思いっきり遊びなさいね。』
お父さんが書いた手紙を、お母さんは泣いて読んでいました。
次の日、「お手紙読んだ?」と聞くと、「はいはい、読んだ読んだ」と、愛想がない姿で幼稚園に行きました。
今、娘は20歳です。成人式に○○くんたちと一緒に行ったそうです。両方のお母さんは、涙を流し喜びました。
たばこを吸っているでしょう
夫は、在宅酸素をして三年が経ち、そのころから若いヘルパーさんが来てくださるようになりました。
そんなある日のことです。いつもどおり、縁側に座っている夫に、ヘルパーさんは、
「おじいさん、また、たばこ吸っていでしょう。手に持っているの知っているんだからね。酸素に引火したら危ないからやめてねっ」と一生懸命言っています。
夫は、「すまん、すまん、縁側に座って、嫁の畑仕事を見ていると、つい、たばこをくわえたくなるんじゃ。もし、良かったら、大根持っていけ。うまいさかい」
ヘルパーさんは
「また、物でごまかそうとしているでしょう。だめだからねっ」と、いつもの会話がはじまりました。
私は、二人とも飽きず、よく三年間も、同じこと言い続けているわっと、つい笑ってしまいます。
今日は、そろそろ本当の話しでもしてあげよう。
「ヘルパーさん、ちょっと、話しがあるので、玄関で待っていてちょうだい」
大根を袋に入れて、
「はい、大根。あのねっ、実を言うと夫はねっ。三年前にたばこはやめているのよ」
「えっ。でも、いつもたばこを持っておられますよ」
「あれはねっ。若い時から、私たちは、畑仕事が終わると、お茶とたばこを縁側で一服するのが、日課だつたのよ。
そのくせね。五十年も、そうしていると、やめられないのねっ。私が畑にいる姿を見て昔を思いだしているのよっ。くせって困りますね。
でも、今はね、火を付けずに、くわえているだけよ。それと、もう一つ、私が好んで畑に行っているとおもっているでしょう」
「はい」
「素直ネッ。実はねっ。おじいさんは、あなたが来ると、畑からあれを持って帰ってもらえるようにしろ。あの子にあれを食べさせてやりたい。とうるさいのよ」
そして、おじいさんは、縁側でたばこを吸いながら、自分がしている気分になるのねっ。それが、あの人なりの癖とお礼なのよ」
「知らなかったです」
「そう、知らないふりして、これからも来てねっ。それがあの人への優しさだからねっ。
あっそうそう、たばこも注意してあげて、なかなか言われて.いるのが、好きみたいだから」
「はい」
「今回あなたに伝えたのは、あまりにもあなたが知らないことに、私の心が痛かったからよ。
このことは、二人の内緒にしましょうね」
私は三年間、たばこのこと知らなかったことより、夫婦二人の生活に近づけたように感じ、とても、うれしく思いました。改めて暮らしの中に、暮らしの歴史に、サービスが入いらせていただいているのだと感じました。私は、今も
「また、たばこ吸っているでしょう」と言っています。ただし、今は、なぜか笑顔なのです。
地域で子育て「育自」
子育て中のお母さん同士のお話しです。
「育児という漢字は、児童の児という字に育むという字だよねっ」
「それは、どうゆうこと?」
「児(子ども)を育てることでしょう。」
「子どもを育てることだけなの?」
「最近は、自分を育てる自を使って『育自』と書くことがあるらしいよっ。」
という会話がありました。
育自とは「自分を育てる」と訳されていますが、ここで「育自」という言葉を整理し、「子どもを育てることは自分を育てることになる」と訳したいと思います。
子どもを育てるということは、子ども一人ひとりの個性に寄り添い、その一人ひとりが親として「自分も育っていくこと」 でなのです。
「その子の親になることも初めてなんだから、こっちの方がいい言葉だよねっ」
「その子、その子にとっても初めてなんだから、自分も子どもたちと一緒に親として育っていくんだよね」
「少し肩の荷がおりた気になれたわつ」 と言う会話を聞きました。
子どもが生まれ、親となり、自分の子育てを振り返りながら、お互いが育っていく前向きな心として、あったかさを感じました。
最近では、「地域で子育て」という言葉をよく聞きます。
もしかしたら、「地域で育自」という言葉がいいのかなと思っています。
「自分たちの地域で、子どもと一緒に育っていく」
それこそが一番大切なことであり、そのことは、「地域全体の福祉風土をつくる」ことにつながるのではないかと改めて感じました。
未来を紡ぐ子どもたちが笑顔で、すくすくと暮らし続けられるまちこそが、本当にいい街であると、自信を持って言えます。
私たちは笑顔あふれる草津市の未来を今願っています。
暮らしの歴史
草津市内で一人暮らししている おばあちゃんのお話です。
おばあちゃんは、パーキンソン病と認知症を患っており、身体機能を低下しないように毎週数回のリハビリデイサービスへ行くように計画を立てましたが、なかなか思うように行っていただけません。
ヘルパーさんは、リハビリデイサービスへ行って機能訓練をして、少しでも元気でいていただこうと、
「リハビリに行きましょう!待っておられるよっ」 と誘うのですが、
「いやだ!いかへん。」と言って行かれません。
では、 「お散歩に行きましょうか」とお誘いしても 「散歩なんか行きたくない」 と駄々をこねます。
しかし、なんと毎週一回実施している地域サロンには、身体の調子がよっぽど悪くない限り、行かれています。
ヘルパーさんは、 「なんで、地域サロンには行くの?」 と聞いてみたら、
「私のことを待っててくれているからや!行かなかったら、心配しはるからな」と笑顔で答えます。
ヘルパーさんは、なんでデイサービスには、行かないのに、地域サロンには行くのか、地域サロンでは、どんなことをしているのか、見てみたいと思い、地域サロンの実施場所まで、送っていくことにしました。
1キロもある長い道のりを、汗をかきながら一生懸命に歩いている姿を見て、ヘルパーさんは、
「すごい!歩けるのやなあ!大丈夫。」と声をかけますが
「一生懸命歩いているときにうるさいなっ」 と言って、一心不乱に歩いています。
家にいるときは、「足が痛い!」だの、「歩けへん!」だの言っていたのにとびっくりしました。
地域サロンの会場に着くと、おばあちゃんは、椅子に座り、
「今日は、百歳体操は、しない!」
「おしゃべりしよう!」
「そうしよう。今日は、その方がいいねっ。」 と世間話を長いこと話し、帰り際に、「また、来週ね!」 と手を振って長い道のりをゆっくり歩いて帰って行きました。
10年も通っていると、ボランティアも参加者の「一言一言で、身体の調子や考えていることも、何も、かもわかるんですね。
例え、機能訓練を考え、最良のリハビリデイサービスを選んでも、 「暮らしの歴史をつなぐ地域サロン」には、勝てないのですね。
地域サロンで百歳体換とするより、1キロ歩く機能訓練は、本人の意思であり、何より効果的であると感じました。
ご近所同士のつながりやきずなは、最良の機能訓練に値するものであると気づかされました!
私たちは、見えている価値に捉われているけど、見えないものこそ価値があるのかもしれません。
素敵な物語が草津市にあることに気づきました。
もし
草津駅前で白い杖を持った方が、大学生の集団とぶつかりました。
「おい、どこ見てるねん!」 と、倒れている方に言い捨て、立ち去って行きました。
その姿を見ていた高校生が、 「大丈夫ですか」 と、手を差し伸べました。
てっきり、僕は、「親切にありがとう。」 という言葉がかけられるものだと、信じていました。
すると、 「ほっといてください!」と…手を払いのけました。
僕は、違う言葉を心に浮かべていた自分が、見てはいけないものを見た気持ちになけました。
なぜ、「ありがとう」 の言葉を…
高校生は、びっくりした様子で立ち去りました。
人生に「もし」はないとけれど、「もし」を付け加えることができたなら、このようになるのではないかと考えました。
「もし」最初にぶつかったのが高校生であれば、次の言葉が変わっていただろう。
そうしたら、「もし」次の人が声をかけたら、違う言葉になっていただろう。
そこには、「ありがとう」 の言葉が、あったのではないのかと、思いました。
そんな繰り返しがこの世の中にはいっぱいある。
「もし」 はないことは知っています。 僕も、雑に生きています。 でも、そこで、間違った言葉を選択しない人になりたい。
高校生の後ろ姿に、福祉の地域づくりを仕事としている立場として、少し頭をさげました。
「ありがとう」 そして 「ごめんなさい」
曲がらないでください。
どうか、まっすぐに優しい心のまま生きてください。「ありがとう」 があふれる地域をつくります。
気づき
ある日、60歳の女性の方から電話がありました。
「私は、事故で右の利き腕を無くしました。やっと退院して家に帰ってきたら、庭が華だらけになっていて…わがままと思わないで聞いて欲しいのですが、お気に入りの腕カバーを左手に付けて、掃除したいのです。腕カバーを一人で付けられる器具をつくってもらえませんか。」
あっ難しそうやなっ。と思いつつ
「わかりました。一度、自助具作成ボランティアグループに相談します。」とお伝えし電話を切りました。
そして、ボランティアグループに相談すると
「一度会って、腕の状況やいろいろ聞いてみたい」とのこと
連絡をとっていただいた後、そのボランティアグループが毎日ボランティア活動室に来られるようになりました。
二カ月が経とうしていた時、
「これを持っていくことになったので、一度試して欲しい」
「あっこれは…」
ボランティアの皆さんで、木を使って、腕カバーを一人で付けられる器具をつくっておられました。試しに作ってみると、スムーズに装着できました。
この腕カバーは、あの方のための物でした。
「明日、持っていくねん。腕カバーも早く返さないといけないから、二カ月かかったわ。喜んでもらえるかなっ」と4人のボランティアさんが笑顔でお話し、渡しに行かれました。
それから数日たったある日のこと、お手紙と写真が送られてきました。
『とてもうれしく、毎日使わせていただいております。この腕カバーは、海外にいる孫からのプレゼントなのです。事故で腕を失った時もいち早く帰って来てくれて、私を励ましてくれたのです。孫にも写真を送りました。』と手紙に書かれていました。
ボランティアグループメンバーみんなで、写真と手紙を読んだそうです。
次の日から、また、ボランティアグループが毎日活動をされています。
「あっまた依頼がきたのかなっ」と思っていました。
そんな時、ボランティアさんから
「今から、謝りに行ってくる。器具の取り換えしてくるわ」
びっくりして、何があったのか尋ねると、送られてきた写真を見て、気づいたらしいのです。
「おい、俺たちが作った器具は良くない。着けることはできるが、外す機能がない。すくに作り直そう。」
それから、また試行錯誤の毎日だったとのことです。
そして、器具ができ、渡しに行かれたそうです。
渡しに行った時のことをボランティアさんに聞くと、相手の方は涙を浮かべて
「ありがとう、ありがとう」と大切そうに受け取っていただいたそうです。
きっと、器具はもちろんですが、気づいてもらった心に「ありがとう」なのだと思いました。
因みにですが、付けて汚れた腕カバーを口で外しておられたそうです。
福祉では、「気づき」「我が事」と言いますが、なかなかその人の立場になって考えることは難しいですね。
そして、一度助けてもらって、また助けてと言うことも難しいのです。感じる心、気づきは、物を超える泉敵なことだと感じました。豊かな心を草津市内に広げたいと考えています。
豊かな心と夢
地域福祉の活動者から、「福祉ってどう訳すの」と質問がありました。
福祉の福という漢字は、「幸せ」という意味、福祉の祉の漢字も「幸せ」という意味で、「幸せ、幸せ」と読める。
ひらがなにすると頭の文字をとって、ふだんの「ふ」 くらしの「く」 しあわせの「し」で「ふくし」と言います。
ここで、共通しているのは、幸せです。だから、福祉は、幸せと訳せるのでしょう。
では、「幸せ」 って何だろう。
幸せって、地域によって違う。暮らしの歴史によっても違う、人によっても違うものでしょう。
そこで、いろいろな福祉の活動を考えると、受ける側、支える側それぞれが「福祉」という言葉で、共通することを考えてみますとこの言葉が、あてはまると思います。
「福祉」「幸せ」は、「豊かな心」と訳したらどうでしょうか。この「豊かな心」は、受け手も 支え手も この心を持って
「暮らし続けられる」ことが「幸せ」であると考えます。
全ての人が「豊かな心」を持ち、「草津市で暮らし続けたいと思える地域にしたい。」
それこそが、福祉に関わっている者が、目指すことなのではないでしょうか。
その思いや心を育むことが、「福祉」の大切な共通点であり、訳せる言葉ではないでしょうか。
どちらにしても、見えるものではないのですが、見えないものにこそ価値がある、そのものが「福祉」ではないでしょうか。
そして、福祉活動は、活動のカタチより、その活動をする際の心の継続が大切であると考えます。
最後に、福祉活動に対してのあてはまる言葉を伝えます。
美術評論家の岡倉天心の言葉
「面白いのは、行為そのものでなくて、その行為にいたる経過だ」
棋士 羽生善治
「将棋に限らず、何事でも 発見が続くことが、楽しさ、面白さ幸せを継続させてくれる」
「そんな見えない夢みたいなこと」言ってると、笑いたい人は、笑ってください。でも、夢は、思い続ければ必ず叶うと信じています。
表の心と裏の心
先日、市内の医療関係施設職員と話しをしました。
「今日で、新型コロナ感染症の方が、県内で一番多い市となりましたねっ。少し話していいですか。」
「今、職員がある場所に行くことになりました。感染防止のため、私は、ゴミ袋とクリアファイルを買ってきました。」
「何に使うのですか。」
「ゴミ袋をガムテープで止め、防護服をつくり、フェイスシールドが無いのでクリアファイル切って代用し、行くために昼休みの間で、職員たちに作ってもらいました。」
そしたら、作っている職員が、
「笑顔で、これでいいですか。よかったです。安心して行けます。」
と言って、向かっているところなのです。
「私は、心が痛い、辛い、涙がでそうになる。でも行くなと言えない、待っておられる。この気持ちは、何なんでしょう。」と言われました。
二人は、黙ったままで時間が過ぎ
「そちらも、大変だと思いますが、二交代で頑張っておられるのですか。」
「私の職場も新型コロナ感染症の関係で始まって以来の忙がしきです。少し利用者に迷惑かけるかもしれないが、体も精神的にも疲れているので、二交代制にしようかと職員に伝えたのですが、やれるところまで、やりましょう。
今、頑張らないといけないと言ってもらえたので、通常勤務で対応しています。」
「そうですか。頑張っていただいて、ありがとうございます。そして、いろいろ聞いていただき、ありがとうございます。元気をいただきました。」と深々とお辞儀をされていました。
そして、「お互い、がんばりましょう。」と別れました。
いろいろな所で、いろいろな人たちが、一生懸命働いています。そんなことは、理解していたはずです。 最後の「ありがとうございます」は、心に刺さりました。
新型コロナウイルスは、命以外にもいろいろなものを奪っています。
経済、人と人との出会い、つながり、絆、思い等、たくさんあります。
もう一度、大切なものを取り戻す活動を実施していきたく思いました。
本当にお互い前向きに、頑張るのではなく、戦いましょう。
会いたいです
訪問から帰ってきたら
「〇〇さんから、電話があって、必ず電話してほしい。」
と机に付箋が貼られいたので、早速お電話しました。
「何か、ありましたか。」
「ありがとうが言いたくて電話しました。僕は、明日広島に行きます。やり残していたことが、あなたに電話することでした。3カ月の間、最後の親友になってくれて、ありがとう。
あなたには、長く生きて欲しい。幸せに生きて欲しいことを伝えたかった。ありがとう。ありがとう。ありがとう。」
私は、「元気でいてください。11月のお誕生日まで、お元気でいてください。こちらこそ、ありがとうございました。」
「では、僕は、近いうちに天国にいくので、嫁にあなたのことを伝えます。」とお電話が切れました。
思い出すと、一年程前に奥さんを送り、その後、夫は、余命6カ月を宣告された時から認知症が進み訪問をすることになりました。もちろん、一人暮らしです。
住んでおられる環境は、30年以上住んでいる世帯は、4軒で、新しい世帯が100軒程最近住宅開発されたそうです。
その4軒は、同じ時期に一緒に移り住み、現在は、みんな高齢で、仲の良い関係です。若い時に、助け合っていこうねと言いながら、暮らしてきたそうです。
その中でも、隣に住む田中さんとは、夫婦ともに年齢も近く何でも言える関係です。
田中さんは、お食事に一緒に食べたり、買い物に一緒に行ったりいろいろとお世話になっているそうです。そんな中で、こんなことがありました。
私が訪問すると、「田中さんに怒られたんや。お金をおろした10万円を無くし、キャッシュカードを無くしたんや。僕は、認知症が進んできているので、
あなたの言ってくれたことや、大事なことは、メモしている。メモをしまくっている。なのに忘れていく。書いたことも忘れる。朝起きると忘れている。何もかも忘れていくんや。」と始めて涙を見ました。
そのまま、心から出る言葉は、続きました。
「しかし、田中さんが、涙浮かべて言うのや。しっかりしてよ。お金だけはしっかりしてください。家に行けなくなる。一緒に、いっぱい話したいのや。頼むから、しっかりして欲しいと言って泣いてくれるんや。」
私は、隣の田中さんともよくお話しして、体調のこと、認知症の状況を細かく伝えてくださいます。認知症のことも十分理解されており、勉強会にも行って理解しようとされているそうです。
もちろん、4軒の方々も私が訪問するときは、挨拶等一言声をかけてくださいます。
本人は、死に方は自分で決める。病院がいい。遺言書やサービスの勉強等をし、草津で死ぬ方法を考えると言っていたことや、そのために私や4軒の方からもいろいろ聞いていました。
しかし、認知症のバラつきが頻繁となり、何度も何度も、息子さんたちと話し合う中で、広島の施設へ入所することに決まりました。
このことを聞くと、遠い場所へ行くことになり、可哀想だと思うでしょう。
しかし、最後の訪問の時、
「僕は、頑張れた。頑張ってきたでしょう。一生懸命生きた。心が痛いのか、心臓が痛いのかわからなくなり、電話いっぱいしてごめんな。みんな、いい人に囲まれて、僕は幸せだ。今、
安心して暮らせるように、息子が考えてくれるらしい。」と和やかな顔でした。しんどかったのでしょう。
息子さんは、お母さんを看取った施設にお父さんも入所できるように手続きをされていたそうです。
4世帯のみなさん、ありがとうございます。私は、みなさんにサービスの良さや地域の良さを教えていただきました。
4軒の皆様、施設に入られたことで、ショックを受けないでください。私は、そこに住みたいです。
お父さん、私の言葉をお母さんに伝えてください。
「ご近所の方に支えてもらいながら、しっかり暮らしておられましたよ。それは、お母さんのご近所付き合いが、あったからです。ありがとうございます。お母さん出会いたかった。」