山田学区社会福祉協議会

山田学区地名のいわれ

山田学区の地名のいわれや言い伝えを集めてみました(順不同)

地名 : 山田町

 草津市の西北部、湖畔に面して北から北山田、山田、南山田と名のつく三つの山田が続きます。いずれも平地で、山らしいものは全くなく、南山田町の大若松神社のなかに古墳と思われる小さい丘があるにすぎません。 こんなところに山田とはふつりあいな地名ですが、深い歴史の名残をとどめているのです。
 すでに建武3年(1336)のころ、南北朝鮮乱の惨状を書いた棟札(木川町天神社)には、「山田図木川荘」の記録もありますが、当時の山田の範囲はずっと広く、木川町や御倉を含めていたようです。
 さて、山田の地名の由来は次の二説があります。
 一つは、当地が山門が山門領でありましたので、山門の田というところから山田と呼ばれたという説です。確かにこの付近は山門領で、室町時代には奉行職もおかれ、 日吉神社の祭礼の勤仕や有事のときには応援に出動することが義務付けられていたということです。
もう一つの説は、住んだ人の歴史から言われているものです。それは、奈良時代この地に山田宿禰一族が住み、その姓が地名になったというものです。確かに、 近江に住んだことを示す「志賀悶閇連山田宿弥」や山田史白金などの名が歴史上にあり、湖西に近いこの地にそれらの人々が住んだであろうことも想像されます。以上の二つので津でどちらが真実であるかは全く分かりません。
 ほかに、この地を地元では「元山田」「元浜」ともいいます。ただ北、南に対比したことからではなさそうで、ここに荘園司が住んでいたかも知れません。
 「草津のふるさと文化 むかし話地名民具」昭和55年3月31日発行 草津市教育委員会 から

地名 : 不動浜

南山田町の一部で、浜寄りにある地域を不動浜と言います。
 この地名を語るとき、当地にある廻向山西光寺におまつりされている二尺五寸の不動明王の伝説を忘れることはできません。
 この仏様は、仁明天皇の承和(じょうわ)5年(838)知謹大師の作だと伝えられ、叡山の西光坊の本尊でありました。応仁の乱のとき(一説には元亀の乱と言われる)、大災から救い出して湖水に沈めて再会を願いましたところ、たまたまこの地の漁師が湖中に不思議な光を放ちましたので、湖水に仏様を沈めた和尚さんに告げ、仏像を引きあげましたところ、 さきの不動明王だったのです。そこで、この地にあった仏堂にまつり、寺名を西光寺と改めたということです。
 ところが、江戸時代の元和8年(1622)膳所城主菅沼正芳が、この不動明王を膳所に持ち帰っておまつりしたところ、夜ごとに「山田へ帰りたい、山田へ帰りたい」とのお声がしますので、この不動浜に帰されたということです。
 このようなお話は、有名な寺院の仏像によくあり、不動浜という地名にふさわしいと言えるでしょう。
 このほかに不動浜という地名の由来ともて、近江朝時代この地に官倉の不動倉があったのではないかとの説もあることをつけ加えておきます。
 なお、今の西光寺の立派な風格のある本堂は、粟東町の有名な古寺・狛坂(こまさか)寺の本堂を移築したものです。 
 「草津のふるさと文化 むかし話地名民具」昭和55年3月31日発行 草津市教育委員会 から

地名 : 南浜

不動の浜の南の端付近を、南浜と呼んでいます。
 関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、徳川家康は武蔵国高麗郡鯨井5,000石の領主であった譜代の戸田一西(とだかづあき)に3万石を与えて入部させました。そして天下普請として膳所城を築き、これが膳所藩の立藩となりました。一西は翌年死去、後をその子、氏鉄(うじかね)が引き継ぎました。
 このころ、膳所藩の家臣が新田開墾のため、当地に派遣されました。この方が岡部権座守(?、おかべごんざのかみ)といい、南浜開拓の祖といわれています。
 このためか、南浜のことを権座の浜ともいいます。南浜には権座屋敷があったとのことです。そして、権座守は1607年に亡くなっています。
 現在の南浜住人が、その400回忌を勤めたところです(平成22年)。なお、お墓が西光寺の墓地のなかにあります。
 一方平成23年は、西光寺の開山上人 徳賢上人の550回忌にあたり、ここ数年はこのような西光寺に関して特記にあたいする時期となっています。

地名 : 不動の浜

むかしむかし。山田の地先の浜にひとりの老いた漁師が住んでいて、その名を音松と呼ばれていた。
 音松じいさんは先年ばあさんを亡くしてからは、めっきり力を落とし、それまで以上に信心深くなっていた。
 その日も朝早く起き、いつものように浜辺に出ると真向いに見える叡山の天台、延暦寺に向かって手を合せて拝んでいた。ふとその波打ぎわを見ると、なにやらまぶしいものが光って見える。
 「はて、なんじゃろう……」
 「これはこれは。もったいない、どうしてこれがこんなところへ。
 そんなことより何より、はよう村おさに知さんけりや……」
 おそるおそる近づいて見ると『お不動さんの木像』であった。
 音松じいさんはうろ覚えのお経を唱えながら
 「よっこらしょ。漁師のものじゃで少々魚臭いが、しばらく辛抱しておくれ……」
 自分の絆天をぬいで尊像をそれに包みこむと、村おさの家をめざして一目散………
 村おさは西光寺の和尚に転り込み、そこで村中集まって供養をしたという。
 音松じいさんはやれやれこれで一段落とその夜ぐっすり眠って明くる朝早く漁に出ると、なんと一網投げる毎に、魚が括れるわ捕れるわ見る見るうちに舟一杯になってしもうたそうな。 明くる日もまた明くる日も、毎日毎日面白いほど魚が捕れた。それで音松じいさんは長者になった。その話を聞いた近在の人々は
 「そんなに、あらたかなお不動さんなら……」
とわれもわれもとその御利益にありつこうと押すな押すなのお参りで、寺の門前には市が立つほどのにぎわいであったそうな。
 それで村の人たちは誰いうとなく、尊像が流れついた浜を「不動の浜」と呼ぶようになったということじぁ。
 (草津市史 南山田町 瀬川 政信) から

地名 : 御倉

 平安時代のはじめ、平城天皇の大同元年(806)のとき、五畿七道の諸国は、その国内の郡ごとに倉を建てて、毎年正税稲を積んでおき、郡ごとに41束を献上することとされおりました。
 このような倉を建てる場所は、農地の開けたところで、都への運搬など交通の便利なところを選ぶのは自然なことです。
 御倉町は、この条件によくあてはまり、この付近の重要な道路は、矢橋から御倉・上笠・芦浦へと通じる芦浦街道があり、一方湖岸に出る水路もあって、大津へ米を運ぶのはたいへん便利であったといえましょう。
 特に、御蔵を「玉出の御倉」と言ったとも伝えられています。官倉がここに設けられ、穀倉地湖南・栗太郡の中心にあるこの地に、たいせつな近江正倉の一つが設けられたことから、御蔵という地名が生まれたものと考えられます。
 「草津のふるさと文化 むかし話地名民具」昭和55年3月31日発行 草津市教育委員会 から

地名 : 木川町

 川らしい川もないこの町が、木川町と名づけられているのには、それだけの理由があります。もちろんこの町の東端を流れる草津川は、砂川とも呼ばれ昔から常に水のある川ではありません。 今のような天井川になったのは、江戸時代方であると考えられています。
 ところが、木川という地名が出てくるのはとても古く、栗太郡内でも最も早く出てくる庄名です。このように考えてみますと、他には木材を運送できるような川があったとしか考えられず、 このことを推定できる二つのことがらがあるのです。
 その一つは、現在南山田町を流れている伯母川は、平安時代条理が整えられるまで、草津の立木神社付近からこの木川町へ直流していたということです。今の伯母川が立木神社の北で直角に二度も曲がり、 それが見事に条里制に合致しています。このことはおそらく当時、川筋を人口によってつけかえたと思われます。そして、その流れの跡を示すように木川町のちかには、かっての川底と考えられる土砂の堆積を見ることができます。
 もう一つは、当町よりおよそ500メートル離れた五条(北山田町)に伊勢所という地名があり、そこへ木川町から川が続いています。 太古、皇大神宮が丹後より伊勢へ移るとき、上陸されたところといわれており、確かに琵琶湖の水位の高かったころ、港であったことは地名からも推察できます。
 このようなことから、この地には水量の豊かな川が流れ、上流の産地から木材輸送に利用されてその集積地から生まれた地名でしょう。また、平安期の大寺木川寺があり早く開けたところで、 青花紙の発祥地としても川にちなんだ孝行娘の話にも深い趣があります。
 「草津のふるさと文化 むかし話地名民具」昭和55年3月31日発行 草津市教育委員会 から